きゐのブログ

きゐ(きい、きぃ)です。ブログはじめました。

【続】流れゆくとき、そして小林泰三『酔歩する男』の紹介

よく聞くように時の流れはその時その時の状況によって変わる。好きな人と一緒にいる時間は早く流れるし、試験前やプレゼン前の時期というのは、さっさと終わってほしいものなのに長く感じられる。
同様に、年齢によっても時間の流れは違うだろう。毎日出会うものが新鮮な子供の時期は時間はたっぷりあるように感じられた。しかし、大人になった今は、気が付けば一日が終わる。

前にも書いたように私は死ぬのが怖い。もっと今という時間をじっくり味わいたい。だが、時間は流れていく。ならばもし私の意識を(何らかの方法で)いじって小学生のときに戻せば、時の流れは今より遅くなるのだろうか?未来に向けて足早に去ってく時の流れを、遅くすることは可能だろうか?

9月に友人よりすすめられた小林泰三『酔歩する男』はこのような時間と意識の関係性を問いかけるSFホラー小説だった。
主人公の血沼はある日飲み屋で小竹田丈夫(しのだたけお)と名乗る人物に出会う。血沼はその男を知らないが、小竹田は大学時代の友人である血沼をよく知っていると言う。だがこうも言うのだ。それは決して血沼が小竹田のことを忘れているわけではないし、小竹田の記憶が嘘の記憶なのでもないと。理解不可能な話をされて苛立つ血沼は詳細な説明を求め、時の中を酔歩してきたその男は自らの経験を、時の流れにいかにして干渉したのかを話し始めるのだった。

私たちが普段時について語るとき、意識しない限りそれはただの目印にすぎない。何時に○○に集合ね、何日に△△しましょう。何歳でこの子を産んだ。□□は何歳で亡くなった…
物理学ではさらに無機質に、ローマ字「t」で表される、ただのパラメータとなる。定規で長さを測定するように、時間を均質な測定可能な量としてとらえることで、時間の微分積分を考え、運動方程式を記述する。

だが、他人のことを考えず、ただ自らの主観、私という存在の意識を考えたとき、ときが流れているのを感じる。時間とは何か、考えている間にも時は流れていく。時の流れを感じているのは私という存在、意識。だが時が流れないと私たちは物事を考えられない。そんなことを考えているとこんがらがってしまう。
それは自己言及のパラドックスにも似たものなのかもしれない。私たちの意識と不可分な時という存在を、私たちが語るのは不可能なのだ。物理学は、私たちの意識とは無関係な超越的な観測者を暗黙のうちに仮定しているから議論することができるのである。
時の流れというのは本質的に我々の理解の範疇を超えるもので、ホラーなものなのだと思う。